訪問看護ステーションeightの所長とはどんな人?
喜久山仁美(妻であり、助産院プルメリア院長、eightスタッフの一員である)が、eightの所長:喜久山敦を紹介いたします。
昭和47年の復帰っ子。4000g超えの長男として北中城村で誕生。身長145㎝の母からは4000gの子どもは自然分娩では生まれないと診断され帝王切開にて出生。
産道を通ってないので、頭の形はとても綺麗。そのおかげで現在も見事な『がっぱい頭』。
野球一筋の少年時代を高校まで北中城村から出ることなく過ごす。野球が大好きなので当時も今も変わらず髪型は坊主。
いろいろありながらも看護師の道へ
その後、放射線技師を目指して、初めて北中城村からの脱出。単身で大阪の放射線技師養成学校に入学。
しかしながらやっぱり沖縄に戻りたくて2年で退学。
「人ともっと関わる仕事がしたい」と看護師の道へ進む。
23歳で、おもと会沖縄看護専門学校に入学。
精神科とのご縁
看護学校を卒業後、公務員の安定を選択して沖縄県立病院に就職。
初の赴任先は、まだコンビニもなかった宮古島。配置された部署は、精神科病棟。ここが今の精神科を極めるきっかけ。
当時の宮古病院には、遊び上手な男子看護師が沢山いて、病棟より海にいる時間の方が長かった。全身真っ黒に日焼けして白衣の白さが妙に目立っていた。
その後、北部病院に転勤。ここが就職して初めての挫折。宮古島の大自然でのんびり自由に過ごし過ぎた後、配属されたのは、厳しい手術室。
先輩看護師に愛情いっぱい育てられすぎて4か月間は毎日仕事行きたくない病。
オンコールのポケベルの音が連日幻聴のように聞こえてた時代。結婚当初の彼は手術室の仕事が大変すぎて、暗かった。
ようやく慣れたころに、再び海遊びがしたくて宮古島に転勤。配属はまた精神科。2度目の宮古島生活も白衣の白さが目立つ色黒で過ごしていた。
実は宮古島で骨をうずめるつもりで永住を考えていたが、「やっぱり同級生のいる沖縄本島に帰りたい」と急遽、県立精和病院に転勤。
このあたりから精神科をきちんと学びたくて真面目人間になる。3人の娘の子育てをしながら働いていたある日・・・。
当時の師長さんが、「あんたは上に立つ人よ~」と彼に声をかけてくれた。
自宅に帰ってくるなり、「俺、師長になりたいかも」と一言。完全に頭がおかしくなった・・・と思った出来事は、今でも鮮明に覚えている。
きっと彼を知ってる人はみんな、頭がおかしくなったはずと言うと思う。
県立精和病院で働いて4年目。またまた当時の師長が、「おまえ、精神の認定取りに行け!」と。
言われるがまま断れず、東京に1年間学生として精神科を極める。そこでの仲間との出会いが今の所長となるきっかけだったかもしれない。
クラスメイトには、訪問看護ステーションの所長、大病院の師長、中には芸能人の米倉涼子さんみたいなスタイル抜群の美人さんがBMWに乗って通学。
その仲間の姿を1年間みて、「看護師でも独立出来るのかも・・」と、初めて頭がよぎったはず。
こんな彼ですが、県に就職したのは公務員の安定が大きな理由。
家族5人を養う責任、何も不自由もない生活を捨ててまで、独立と言うチャレンジをすることは当時の頭には全くなかった。
独立を考えるようになったのは…(妻の思惑)
ここからが私の出番!とにかく3年間かけて彼が独立したくなるように洗脳の毎日。
本当のところは、一度でも独立してみようかな?と思ったならば、人生の大きなチャレンジをして欲しかった。
頑張って勉強して取得した精神科認定看護師の資格をもっと活かして欲しかった。
そう思うのは、実は私が自由人だから。25歳の時、毎日ダイビングがしたい理由だけで、岡山県から宮古島に移住。
実は私も宮古病院で働きながら彼らと海遊びをしていた仲間の一人。彼と同じく全身真っ黒に日焼けして白衣の白さが目立っていた。
縁あって彼と結婚して、病院勤務を退職して自宅で、平成19年~助産院開業と言う道を選んだ。
経営者の楽しさ・苦労を彼はずっとそばで見てきた。とにかく私のやりたい事には反対せず、常に背中を押してくれた。
今の「助産院プルメリア」が成り立ってるのも、絶対的な応援団の彼のおかげだと感謝している。
今度は、恩返しのつもりで彼を独立させる!が私の夢となった。
洗脳2年目・・・。まだ公務員の安定を捨てる気は全くない彼。
洗脳3年目・・・。訪問看護ステーションをするしか道はないと彼が思うように、スタッフをスカウトしてきて、みんなで精神科訪問看護基本療養費算定要件の研修も受けた。
そして現在の事務所となる物件も探してきた。
精神認定看護師と助産師のコラボレーションの訪問看護ステーションは全国に例がなく、ここ沖縄から発信できたらこんな素敵な事はない。
支えあってきたからこそできる貢献
令和2年10月。やっとやっと彼は師長に退職の意思を伝えた。独立と言う覚悟を決めてからは、頭の切り替えはとても速かった。
お世話になった県立病院にどうやって恩返しが出来るか?
自分が訪問看護ステーションを開設することで、どうって沖縄県民に貢献できるか、ずっと考えていた。
そんなこんなで、誰もが遊び人としか思わず、世渡り上手と言われ続けた彼が、令和3年5月1日:訪問看護ステーションを立ち上げ、所長となった。
一度きりの人生にチャレンジしようと決めた所長こと喜久山敦の今後に期待しながら、彼を独立させると言う私の夢は達成。
今後の私は黒子として、訪問看護ステーションのスタッフとして携わり、
スペシャリストのeightスタッフと共にサポートしようと思ってます。
皆様、所長として成長する彼を、どうか温かく見守って下さい。よろしくお願いします。